キャサリン・ディケンズは、伝説的人物である夫、チャールズのように知られてはいません。ビクトリア朝文学といえば、彼の名前がまず思い出されます。ですがディケンズ夫人の人生もまるで小説のようだったのです。キャサリンは勇気ある旅行者であっただけでなく、すばらしい女優であり素晴らしい料理の腕を持っており、著述家でもありました。ディケンズのアマチュア演劇で演じ、ベストセラーとなった料理本も出版しています。
なぜこんなに才能にあふれ、献身的な妻であり10人の子供を持つ母であった女性が離婚という捨て身の選択をしたのでしょうか。長い間、ディケンズの伝記作家たちは彼女のことを愚かで直情的に描いてきました。ですが、そろそろ真実を知ってもいいのではないでしょうか。
タイムスタンプ:
チャールズ・ディケンズがキャサリンに出会ったのは 0:39
「最高の伴侶」「愛する妻」または「D夫人」 1:29
チャールズがキャサリンを責めた理由 3:50
結婚生活を終わらせた決定的な過ち 4:52
子供達が父親と暮らした理由 6:16
キャサリンの来孫の言ったこと 8:03
チャールズがしようとしたひどいこと 8:50
#チャールズ・ディケンズ #女性の権利 #ブライトサイド
概要:
- キャサリン・ホガースは1815年5月にスコットランドで生まれました。彼女は円満で知的な家庭で、10人兄弟の長子として育ちました。
- 賢く美しいキャサリンを、ディケンズはすぐに好きになりました。チャールズは、結束が固くて、愛情あふれる家族を持つことを夢見ており、キャサリンは妻としても、思慮深い母親としても、そして知的な親友としても完璧だったのです。
- 若くて自由、そして喜びにあふれていたのです。家庭や金銭的な問題で悩まされることもありませんでした。劇場やパーティーに出かけ、チャールズはキャサリンを「最高の伴侶」、「愛する妻」、または「D夫人」などと呼びました。
- 5人目の子供が生まれる前、夫婦はアメリカを訪れました。ディケンズはそこで大きな成功を収めたのです。小説が瞬く間にベストセラーとなりました。
- キャサリンが5人目の子供を産んだ時、チャールズは、これ以上の大家族を望みませんでした。日記にも、これ以上子供は欲しくないと書き残されています。
- 15年のうちに、キャサリンは合計10人の子供を産んだのです。彼女が大きなストレスにさらされ、結婚当初のような美人ではなくなったのも無理はありません。
- ついにチャールズは、彼女と相性が良くないという結論を下したのです。そして友人に、妻が冷酷で無感動な人間である、と話しました。
- その後しばらくして、1858年の春、重大な過ちのために、ディケンズ家の結婚生活は終わりを迎えることとなります。チャールズが18歳の女優、エレン・ターナンのために買ったブレスレットが、郵便配達人の間違いで、彼らの家に届けられたのです。
- キャサリンは愛想を尽かしました。チャールズから永遠に去ることにしたのです。
- ヴィクトリア朝時代、結婚は破棄するべきではないとされていました。もしそうなった場合、女性に権利はありませんでした。そのため、キャサリンと共に家を出たのは長男のチャールズJr.だけだったのです。
- 世間はキャサリンを非難し、有名で天才である夫にふさわしくないと考えました。
- 作家で専任講師、そしてキャサリンの来孫でもあるルシンダ・ホークスレイが、彼女を擁護したのは、死後139年経った2016年のことでした。ディケンズの伝記は不公平に記載されており、良い妻であり、素晴らしい母親でもあったキャサリンが夫のチャールズと、不安定な結婚生活を送っていたことがきちんと述べられていないと主張。
- 発見された手紙では、正式な離婚の前、チャールズが虚偽の診断を利用し、妻のキャサリンを施設に入れようとしたことが分かりました。キャサリンが正気ではないと診断するよう医師を説得しようとしたのです。
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声の出演:荘司哲也(Studio Kiwi)
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